長谷川家の歩み
THE JOURNEY OF THE HASEGAWA FAMILY
長谷川家は、小田郡美川村上高末(現在の矢掛町上高末)で、江戸末期に「車屋長谷川」の屋号を持ち、米屋・農林業を営む家系でした。
現社長から数えて四代前の代で一度家系が途絶えかけましたが、長谷川家と縁の深い本多家から婿養子と嫁を迎えることで家督を継承しました。その長男が長一、次男が毅です。
正興社長の祖父である毅は、旧制中学校を卒業後、公務員として勤務しました。
やがて第二次世界大戦が始まり、戦時中に大日本土木の専務と戦友となり、日本の戦後復興の折には耐火煉瓦が必要になること、その供給で全国的な取引が見込めることを知らされ、その約束を取り付けます。
戦後、帰国した長男・長一とともに岡山県内で耐火煉瓦の企業を探しましたが、条件に合う企業が見つからず、代わりにセメント瓦工場であった八王寺工業株式会社に着目しました。
創業は1928年(昭和3年)にさかのぼりますが、戦後のある時期に、長一が中心となって資金を調達し、当時の株主に総社市選出の衆議院議員・山崎氏らが加わる形で、八王寺工業株式会社の経営権を取得したと伝えられています。
その後、会社経営が軌道に乗り、本家は引き続き米屋・農林業を営んでいたことから、八王寺工業の事業は次男・毅に引き継がれました。
当時、約1,000万円規模の資金を長谷川家の信用で調達しており、現在の貨幣価値に換算するとおよそ1億円相当とされています。
八王寺工業株式会社は、個人創業から株式会社化を経て、柏木貞一(初代社長)、相原武一郎(2代目社長)、諏訪義男(3代目社長)、その後長谷川 長一(4代)、毅(5代)、広海(6代)、正興(7代)へと社長職が引き継がれてきました。
1928年の創業から数え、まもなく100年を迎える歴史を刻んでいます。
創業当初は倉敷市酒津の工場からスタートし、その後の時代のなかで岡山市や米子市など複数の工場を展開する時期もありました。
一時は工場数が減少した時期もありましたが、毅の代には倉敷市酒津、米子市、倉吉市、新見市といった地域で事業を展開し、セメント瓦から空洞ブロック、コンクリート二次製品、生コンクリートへと主力商品を変化させながら成長してきました。
現在は、グループ全体として米子工場・境港工場・倉敷真備工場の3工場を基盤としています。
このうち八王寺工業株式会社としては、倉敷真備工場と境港事業所(※旧:境港工場を集約)を主要拠点として営業しています。
7代目社長・長谷川正興の母方の系譜は、都窪郡清音村(現在の総社市清音)にあります。
高祖父・常七は、当時の清音村で助役を務めていました。
常七の代から材木業を営み、その流れの中で、祖父の叔父にあたる柳吉は「材木業だけでは今後の生計は厳しい」と考え、人生50年と言われた時代に30歳から京都大学法学部へ進学しました。金時計を授与される優秀な成績で卒業し、その後は台湾で自治行政に携わったのち、実業家・大原孫三郎に見いだされ、クラボウ(倉敷紡績)の社長に就任しました。
その縁が広がり、柳吉の娘は、岡山土地倉庫の社長であり、岡山商工会議所会頭も務めた工藤常吉のもとへ嫁ぎました。
さらにその系譜は、岡山トヨペットを率いた末永家へとつながっており、行政・産業・流通の各分野で地域に根ざした役割を果たしてきた一族でもあります。